2025年12月14日日曜日

沖めざし どこへ行くのか 鴨の群れ


 一昨日、知多半島の先端、美浜町のオレンジラインに行きました。オレンジラインは知多半島を横断する約10㎞のハイキングコースで紅葉の山の中を歩く素敵な道でした。

そのスタート地点の河和口で三河湾を望むと、何千何万もの鴨の群れがいて、鰯の群れのように整然と列をなして固まっていました。まるで一つの生き物がどこかに向かって飛んでいくかのようです。小魚でも小鳥でも羽虫でも蝙蝠でもよくこういうかたまりを作ってうねうねと進んでいきますが、誰が指令やアドバイスを送るでもないのに、自然にこういう形になるのが本当に不思議です。

2025年12月13日土曜日

清洲城 ここから始まる 統一が


 愛知県清須市(清洲市ではない)にウォーキングに行きました。ここには織田信長の居城、清洲城があります。信長がここから桶狭間などの戦いに出て行ったり、徳川家康と同盟を結んだり(清洲同盟)、本能寺の変のあとここで秀吉などが跡継ぎを決める会議をしたり(清洲会議)歴史上有名な場所です。

その後、1610年尾張の中心が名古屋に変わり、名古屋城の資材として解体されてしまいます。

1989年(平成元年)再建されますが、設計図が残っていないので、想像上の形で鉄筋コンクリートで作られました。歴史的に考えてこんな立派な天守閣だったとは思えないのですが、単純にシンボルとして捉えれば良いのかなと思います。

2025年12月12日金曜日

ショッキング 今年の漢字 熊になる


 今日は「いいじいちじ(1212)」から漢字の日。そこで毎年この日に漢検主催で「今年の漢字」が京都・清水寺で発表されます。

今年の漢字は「熊」。連日のように熊の出没・被害のニュースが続きました。第2位は「米」(米の価格高騰、トランプ米大統領の訪日)、第3位は「高」(物価高、株高、高市首相就任)です。どれが選ばれてもおかしくないほど話題になりました。

来年は、もっと明るい話題で漢字が選ばれるとうれしいですね。

2025年12月11日木曜日

縄跳びを リズム良く跳ぶ 人生も


 昨日、勤務校で「なわとび記録会」という行事がありました。今は危険なので、マラソン大会とか駅伝大会とかやっている学校はほとんどなく、冬の行事は「なわとび大会」ぐらいでしょう。子供たちは、前跳びはもちろん、駆け足跳びとか、綾跳び、交差跳び、二重跳びなどいろいろな種目を器用に跳びます。昔、私の通った小学校ではなぜか行進ばかりしていて、縄跳びなどやったことがありません。そのため私はいまだに前跳び以外できません。自転車と同じで、幼少期の経験が大切な競技ですね。

子供たちが懸命に跳んでいる姿を見て、人の歩みに似ているなと感じました。一歩一歩の積み重ねが、人生を重ねていくことに繋がっている感じです。歩みを止めれば、そこで成長も止まってしまいます。子供たちはそれぞれの人生の目標に向かって、一歩ずつ着実に歩んでいってほしいものです。

2025年12月10日水曜日

晩秋の わずかに残る 柿狙い


 秋もすっかり深まり、冷たい空気が吹いています。校庭から見える柿の木に付いている柿もすっかり数を減らしまばらになってきました。少年がそれに気づき、一所懸命飛びつきますが、あとわずかのところで届きません。それでも何度も何度も飛びかかり悔しがります。大人なら初めから諦めるか、途中でくじけるかですが、この少年は、無心で挑戦し続けます。

こんなけなげな子供心を、私たちはもうすっかり忘れ去ってしまいましたね。

2025年12月9日火曜日

真珠湾 八十四年 悲劇から


 84年前、昭和16年12月8日、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、たくさんの軍艦を沈め、悲劇の太平洋戦争が始まりました。アメリカ人はそのことから、"Remember Pearl Harbor"を合い言葉に卑怯者のジャップへの復讐に燃え、太平洋戦争に勝利しました。

卑怯者というのは、宣戦布告もなしにいきなり攻撃してきたことを指すのですが、日本軍は宣戦布告をしてすぐに攻撃する予定だったのが、手違いで宣戦布告が遅れて逆になってしまったようです。また、この攻撃に至るまでに、今の北朝鮮やロシアに対するように、日本への包囲網や石油などの禁輸政策などがあり、日本としてはどうしようもなく、「窮鼠猫をかむ」状態になっていたようです。そこに、軍部の暴走もあり、こんなことになってしまいました。だから、一概に日本ばかりを責めるのもどうかと思います。

いずれにしても、戦後80年間平和が続きましたが、最近、中国の動きが危うい感じがします。中国が動けば、北朝鮮・ロシアも同調するでしょう。そんな最悪の事態にならないように、心から祈っています。

2025年12月8日月曜日

魚狙う 鏡に映る かわせみが


 昨日、近所の洲原池にウォーキングに行ったときのこと。たくさんの鴨や鷺から少し離れたところに一羽のカワセミが枝に止まってじっと魚を狙っていました。

他の鳥に群れることなく、紅葉の中、ちょうど鏡のように水面に映り、えもいわれぬ美しさで孤高の存在感を醸し出していました。さすが、清流の女王です。

2025年12月7日日曜日

空気澄み 冬の御嶽 聳え立つ


 昨日、名古屋市の猪高緑地公園にウォーキングに行きました。小高い丘の展望台から、どーんと大きく白い御嶽山が見えました。関東の人たちにとっては冬に富士山がよく見えるのと同様に、愛知県からは冬になると真っ白い御嶽山がよく見えます。わがふるさとの母なる山という感じですね。

2025年12月6日土曜日

エジソンの 蓄音機鳴り 科学発展


 今日は音の記念日。発明王エジソンが1877年12月6日に蓄音機の録音・再生に成功した日だそうです。
エジソンは、白熱電球・活動写真・電話・電気鉄道など1300もの発明をし、今の科学の発展に大きく寄与したのは周知の通りです。彼は何でも知りたがりで、「粘土と粘土をあわせても大きな粘土になるだけなのに、1+1はなぜ2なの?」などと何でも疑問に思って質問を繰り返し、わずか3か月で小学校を退学になったそうです。その後は独学でたくさんの研究をして今に残る功績を残しました。
もし、彼が小学校を退学しなかったらこれらの発明はなかったかもしれません。「人間万事塞翁が馬」とはこのことでしょうね。

2025年12月5日金曜日

たくさんの 曲と悲劇の モーツァルト


 今日12月5日はモーツァルト忌。

モーツァルトは幼少期から父に連れられヨーロッパ諸国を巡り、各地で演奏旅行をし、多くの曲を作るなど、華々しい前半生を送ります。神童とか天才とか言われる、数多くのエピソードに彩られています。

しかし、後半生は信じられないほどの不遇。1791年12月5日の彼の死も誰にも看取られず、他殺なのか自殺なのか病死なのかその死因さえもいまだにわからないまま、35歳という若さで亡くなります。こんなに悲劇的な人は他にありません。

彼は生涯に名曲を数多く残し、音楽史に多大な影響を与えています。クラッシックなど聴かないよという人でも、実はたくさんの曲を耳にしたことがあるはずです。私も好きな曲は数多くあります。今も彼の「レクイエム」を聴きながら、彼の死を悼みつつこの文章を綴っています。

2025年12月4日木曜日

落ち葉たち 掃いても掃いても 舞い落ちる


 今の時期、学校では毎日の落ち葉が大量で、掃いても掃いても、次から次へと落ちてきます。勤務校では紅葉する気が多く、とてもきれいですが、掃除が大変です。

教室には入れない子が一生懸命手伝ってくれます。「休み時間に遊ぶより、こっちの方が楽しい」なんて言っていますが、ありがたく感じたり、これでいいのだろうかと考えたり、複雑な思いです。

2025年12月3日水曜日

木枯らしに 負けじと咲くよ 山茶花が


 花の少ないこの時期、わが家の玄関横の山茶花(さざんか)が咲き始めました。山茶花を見ながら、ふと懐かしい童謡を口ずさんでいました。

「山茶花山茶花咲いた道 たき火だたき火だ落ち葉だき 当たろうよ当たろうよ 霜焼けお手々がもうかゆい」(「たきび」という童謡の2番)

しかし、今では落ち葉を集めてたき火をすることはありません。昔はこのたき火の中にさつまいもを入れて焼き芋にしていましたね。甘くておいしかった。

霜焼けの子供は今は見ません。子供の頃はクラスで多くの子が霜焼けになっていました。なぜか女の子が多かったですね。栄養状態が悪かったのか、衛生状態が悪かったのか。私はなったことがありませんが、とても痛痒そうでかわいそうでした。

ふと、山茶花の歌を口ずさみながら、そんな昔のことを思い出してしまいました。

2025年12月2日火曜日

年早く 坊主が走る 師走なり


 時の経つのは早いもので、もう12月。師走です。

師走とは「師が走る」と書きますが、教師ではなくお坊様です。昔は年末になると各家庭で先祖供養のためお坊様を呼んでお経を上げていただいていたようです。あちらこちらで呼ばれるためお坊様は大忙し。普段おっとりしたお坊様も思わず走り回るほど忙しい時期だったのでしょう。旧暦の月の呼び名はいろいろありますが、師走は一番面白く、印象に残る呼び名ですね。

2025年12月1日月曜日

丸根砦 兵どもが 夢の跡


 愛知県は、日本のほぼ中央、東西の境に位置し、戦国時代の織田信長・豊臣秀吉・徳川家康(愛知県では三英傑と呼んでいる)の出身地。そのため各地に古戦場や城・砦などの史跡が残っています。昨日ウォーキングしたこの丸根砦もその一つ。

今川義元が西進し、天下を狙う途中にあった尾張・織田家。その激突が桶狭間の戦いでしたが、その前哨戦として、この丸根砦や鷲津砦、大高城の戦いがあります。しかし、今川家の人質となっていた徳川家康によって軽く一蹴され、その油断から今川家はすぐ近くの桶狭間で大敗を喫することになります。丸根砦の大敗が桶狭間の大勝の伏線になっていたのですね。

その丸根砦跡に行ってみますと、小山の茂みの上に「丸根砦戦殉難士之碑」があるだけで、昔の兵士の無念さを感じます。